たまに目にする「盛れない写真が若者の間で人気!」というニュース。
どうやら10代や20代の間では、加工アプリで盛れる写真よりもそうじゃないもの、例えば写ルンですや証明写真なんかが人気らしい。
写ルンですや証明写真のように、多少フィルムごとのクセはあるものの、「加工」を避けた写真に味気なさを感じたから、誰でも自分を盛ることができる加工アプリが開発されたと思っていて。
それに居心地悪さを感じて、原点回帰する現象はなんとも不思議な気分になる。
つまるところ、結局人というのは「ないものねだり」をしてしまう生き物らしい。
写真の話だと、フィルムカメラとデジタルカメラが良い例だろう。
フィルムは撮影した画像をその場で確認できない。現像という作業があって、フィルムのネガと写真を手にできる。
一方、デジタルなら撮影した画像は、その場でモニターで確認できるし、気に入らなかったら削除もできる。そして、写真が保存されているSDカードを手にすれば、コンビニでも簡単に写真として手に入れられる。
技術の進歩もあるだろうけど、デジタルカメラやスマートフォンのカメラが発達した結果、「撮ってすぐ分かる」ことを避ける人たちも出てきた。あえてフィルムカメラや写ルンですを購入し、現像するまで何がどう写ったか分からない写真を楽しむ人も増えている。
当時は「不便」だから便利を追い求めて、さまざまな努力がなされてきた。
それが今や、「便利すぎる」がために、不便に新鮮味を感じるまでになった。
それは他のものにも言える。音楽ならデジタル全盛なのに、レコードの人気が急上昇している。
僕は正直なところ、便利だから素晴らしくて、不便だからダメという考えは持っていない。
むしろ、便利と不便の両方があるからこそ、自分の気分とかライフスタイルに合わせて選択肢が増えたという風に捉えている。
便利さに疲れることもあるけれど、不便さを織り交ぜながら暮らしているから、便利さを受け入れられているはずだ。
写真の話なら、好きな人はデジタルをベースにしつつ、たまにはフィルムを楽しむ方もいることだろう。
その逆も然りだ。
人は結局いつもないものねだりをしてしまう。でも、ないものねだりをするからこそ、改めて今の便利さに気づくことができる。そして、そのどちらを選ぶかを自分の意思で選択できる時代になっている。
自分の暮らしのなかにある不便さ、便利すぎるツールに居心地の悪さを感じたら、一度立ち止まってみるとおもしろいかもしれません。
もし、そこに「進歩」が隠れていたら、自分をあえて不便にダウングレードさせてみると、今の良さに気づけるかもしれない。