いつも足を運ぶ喫茶店の店主は女性だから、マスターではなくママさんと呼ぶ。
でも、「マスター」という言葉の響きは、いかにも喫茶店という感じがするから、密かに憧れている。
僕が喫茶七色として、SNSで発信したり、1日喫茶を開くとき、ある喫茶店のマスターの姿を思い出す。
もうその喫茶店はない。自分の記憶にあるマスターを忘れないうちに書き残そうと思う。今日はそんな話。
愛知県で過ごしていた学生時代、いつもの喫茶店で僕が今度東京に遊びに行く話をしていると、常連さんの1人が「東京の〇〇という場所に、◯◯◯という喫茶店があるから行ってみてほしい」と言った。
そこは、常連さんが東京で暮らしていた頃からあり、マスターとたまに奥さんの2人で静かに開けている喫茶店だそうだ。
お店のことを聞いて、常連さんが「マスターに会いたいな」と話したこともあり、それならと行ってみることにした。
3両編成の電車でゴトゴト揺られて着いた最寄り駅は、高い建物もなく家が並び、東京とは思えないほどローカルで、住む人はみんなゆっくり歩いている。
駅から歩いて5分。常連さんから聞いていたその喫茶店にたどり着いた。
扉を開けると、カランコロンとベルの音が鳴り、黒の蝶ネクタイに白いシャツを着た小柄なマスターが「いらっしゃいませ」と声をかけてくれる。
カウンターが5席と、2人掛けテーブルが2席の小さなお店。
ブレンドをお願いする。
マスターの背中には大きな食器棚があり、そこからコーヒーカップを取り出して準備を進める。
ちなみに、ここはサイフォンでコーヒーを淹れる。
お湯が沸騰する様子を眺めていると、下のフラスコからお湯が上ってコーヒー豆と混ざり合い、フロートと呼ばれる上の円形のガラス部分が琥珀色に染められる。
サイフォンを火から外すと、コーヒーはゆっくりとフラスコに戻っていく。
そして、僕のもとにコーヒーが置かれる。
ブレンド 400円。
常連さんから噂は聞いていたけれど、コーヒーを出した後のマスターの妙技が、本当に見事だった。
上のガラスに残ったコーヒー豆は、一般的にはガラスを振ってゴミ箱に捨てる。
でも、マスターは違う。
下のフラスコに向かってコーヒーが落ちる穴を「ポンッ」と手で押し出し、その勢いでコーヒー豆を捨てる。
コーヒーを淹れるたびに、店内に響く「ポンッ」という音。
そして、ガラスに豆は一切ついておらず、キレイなままなのだ。
マスターはひとしきりの片付けを終えると、タバコに火を点ける。
タバコはHOPEだった。
僕はマスターに話しかける。
マスターは常連の◯◯さんのことを覚えていて、僕が来てくれたことも、常連さんの元気な近況を知られたことも喜んでくれた。
それから就職で東京に移り住んだ僕は、マスターがお店を閉めることを知った。
高齢で体の心配もあり、「もう43年。十分やったよね」とマスターは、久しぶりに来た僕を前にそう笑って話した。
今回もブレンドをオーダーし、マスターがコーヒーを淹れてくれる。そして、「ポンッ」という音を響かせて豆を捨て、HOPEに火を点けて、ゆっくりとタバコを味わっている。
初めて来たときと、閉店が近い今もマスターの姿は全然変わらない。
あるとき、お店を長く続ける秘訣をマスターに聞いてみた。
マスターは少し考えて、「気負わず、いつも楽に力を抜いておくこと」と答えてくれた。
長くやってきたからといって、驕らず飾らず、静かにコーヒーと向き合うマスターの姿は、僕の理想のマスター像と重なる。
マスターがお店を閉めてもう5年が経つ。
マスターは今どうしているかな?知る手立てはないけれど、穏やかな毎日でコーヒーを楽しんでいてくれたらいいなと思う。
喫茶七色|akira