ある日、電車に乗っていた時のこと。駅に停車して扉が開き、お母さんと小学校低学年くらいの姉妹の親子が乗ってきた。窓の外、ホームにはおばあちゃんの姿があり、お孫さんである2人に手を振っていた。
すぐに発車するわけでも、他の電車からの接続を待つわけでもなく、なぜか少し長めの停車だった。
お姉ちゃんが窓に手を当てると、おばあちゃんもそこに手を当てる。窓越しに重なる手が微笑ましく、親子がいる席の床に置かれた荷物を見ると、今は別れの時間なんだなと思った。
実際、おばあちゃんのメガネの奥に見える目は少し潤んでいた。
それを見ていたら、なぜか僕も込み上げてくるものを感じた。
きっとまた会えるのだろう。それは明日とか1週間後とか1か月後とか、半年後や来年かもしれないし、もっと先の話かもしれないけれど。
でも、「また会える」は、いずれ「会えなくなる」に変わってしまう。
人は死から逃れられないから、お別れが必ず来る。
僕も久しく地元に帰っていない。両親はまだまだ元気だし、電話をすると「心配しないであんたは頑張りなさい」と言われる。
でも、何が起こってもおかしくない年齢なのだ。
有名人の訃報のニュースが流れると年齢が目につき、無意識のうちに自分の両親と重ねてしまう。「あ、あと◯年で同じ年齢になるんだ」と。
そう思うと、あと何度会えるのだろうかと考えてしまう。
大学生の頃は実家に帰るたびにいろんなところに出かけていたけれど、社会人になって数年経った今は、家で両親と話すことのほうが増えた。
親としてはもちろん、人生の先輩でもあるわけだから、何かと話し相手になってもらっている。
普段の電話でもそうしているけれど、やっぱり直接会って話すのはいいものだ。
一緒にお酒を飲み交わしながら、いろんな話ができる家族の時間は、なによりの幸せなのかもしれない。
喫茶七色|akira