はじめに断っておくと、コロナで苦しい思いやつらい思いをした方、大切な人を亡くした方もいるはずだから、このようなタイトルに嫌悪感を覚える方もいるかもしれない。
でも、どうしてもこのタイトルにしたかったのは、物理的な部分ではなく、心というか精神的な面でコロナという時代は一番豊かだったかもしれないと僕自身が思っているからだ。
特に最近、どうしてもこのように思う瞬間が増えてきたこともあり、浅はかではあるが自分の考えを言語化しておきたくなったので今日はそんな話。

コロナは現在も続いているが、もともとは2019年の12月頃に確認されて当時はそのようなニュースが取り上げられつつ、いつか日本に入ってくるかもしれないけれど、すぐにではない感じがあった。
しかし、年が明けた2020年の1月には日本国内でも感染者が出始め、あっという間にその数は広がり、テレビやネットのニュースはその話題で持ちきりになる。
会社もしばらくは出社の体制だったけれど、当時在籍していた部署でもついに感染者が出たことで、強制的にテレワークに移行した。休日の夜に上司から焦った声で電話がかかってきたことをよく覚えている。声からは未知のウイルスが身近になりつつある事実への恐怖や、勤務スタイルが突然変わることへの戸惑いが伝わってきた。
僕は僕で会社から歩いて約10分、直線距離で600メートルしか離れていないにもかかわらず、急に自宅で仕事をすることになって感じたのは、家が仕事場になる戸惑いとフリーランスみたいだというちょっとした興奮だった。

テレワークなんてできるの?という最初の気持ちは、当時誰もが使っていたZOOMで社内外の人と毎日やり取りするうちに薄れていく。
代わりにわずか10分だけれども通勤する必要がなくなり、出社していたときよりも業務に集中できているような気がして心地よかった。
そんな心地よさとは裏腹に、暮らしの面ではストレスが増えていく。
それが「緊急事態宣言」だ。宣言が出てからは、どのお店も営業を自粛したり、営業時間を短縮したりする以外に「不要不急の外出は控えて」とのことで外出も難しくなった。
いや、外出自体はしてもいいのだが、外に出て何かをするという行為に対して、周囲は厳しい視線や言動で裁くような空気感が少なからずあった。
だから僕は、買い物や散歩以外でもプライベートな外出、例えば理由もなく本屋やCDショップに足を運んだり、彼女とのデートもほとんどしなくなっていき、代わりに僕は朝早くや夜遅くにアパートの近所を散歩するようになる。
誰もいないいつもの街を1人で静かに歩くのは、とても静謐で誰にも壊されたくない大切な時間だった。

冬が明けて春になってもコロナの脅威は止まらず、毎年の桜まつりも中止になり、川沿いは提灯が飾られることもなく、夜のライトアップもなくなった。
見物客もほとんどおらず、その街に暮らす人たちだけが眺めるような桜は、長年暮らす方曰く、何十年前と同じような風景だったそうで、その方が知っている同じ桜を見ているようで嬉しかった。


不自由だけどその事実を受け入れ、そのなかでできる限りの自由を手に入れようと、誰もが必死に考えて行動していたような気がする。
ただ、緊急事態宣言で営業をストップするお店も多く、好きな喫茶店やバーに行けないという意味では、僕のストレスはどんどんたまっていった。
そんなある日、彼女とこんな会話になった。
(僕)「喫茶店に行けなくなっちゃったね」
(彼女)「ホントだね。クリームソーダ頼めなくなっちゃった」
(僕)「え?クリームソーダ好きだったの??」
(彼女)「そうだよ?知らなかったの?」
僕は当時クリームソーダをほとんど飲んだことがなかったのだが、彼女がクリームソーダ好きで、コロナで一緒に喫茶店に行けないのなら、作ってあげられるんじゃないかなと考えるようになった。
そうして作った初めてのクリームソーダに彼女は大喜びし、僕は僕で少ない道具で喫茶店の味を再現できるクリームソーダの魅力に気づくことができた。
グラスに氷が当たる音、ソーダが弾ける音、きれいな丸に仕上げたアイスにサクランボの際立つ鮮やかな赤。
色の変化でグラスの中にいろんな景色を作り出せるクリームソーダは、コロナで不自由になった自分の暮らしに、新たな彩りを持たせてくれたかのようだった。

そうして、架空の喫茶店としてInstagramから始めたのが喫茶七色だ。
当時は「#おうち時間」というハッシュタグが流行っており、同じように喫茶店に足を運べなくなった喫茶店好きがアカウントを見てくれて、フォロワー数やインプレッション数も少しずつ増えていく。
特にクリームソーダデュオのグラスは、全国でも数少ない喫茶店しか持っておらず、「飲んでみたい」という言葉をいくつかいただいたこともあり、1日喫茶を開いてみようと思った。
場所を貸してくださるところ、アイスやシロップ、ソーダに氷を準備して迎えた当日は、友人を除くと本当に知らないお客様は5名程度しかいらっしゃらなかった。
どう考えても赤字だったけれど、それ以上に自分で企画して告知をし、1日だけれどもやりきったという清々しい気持ちでいっぱいだった。

不定期で開催する喫茶七色の1日喫茶は、少しずついらしてくださるお客様の数も増え、赤字ではなく黒字にもなっていったが、同時に感じたのは違和感だった。
来るお客様の数に対して自分が思うようにスピードアップできず、非常にお待たせしてしまい、流れ作業のようにクリームソーダを作っている自分の姿に少しだけ嫌気が指した。
1日喫茶の本当の目的はネットの中、スマホの画面越しだけの関係ではなく、こうしてリアルな場所で人同士の交流を作りたかったからだ。でも、それがだんだんとできなくなってきた。
だから、1日喫茶を待ってくださる方が多いなかで申し訳ないが、当分は開催しないでおこうと決めている。
でも、完全に嫌とは思わないのは、自分がクリームソーダを作るという行為に楽しみや喜びを感じているからだ。


創造と消費というのは絶妙なバランスの上に成り立っていて、どちらかが崩れても仕方がないのかもしれない。
でも、クリームソーダに関して言えば、僕は消費するよりも創造することのほうが好きなようだ。
消費ありきだった自分の暮らしに創造が入ってきたのは、実際コロナがあったからそのきっかけが生まれたというのは、結果論だけれども間違いないと思っている。
コロナがなく今までと変わらない毎日だったら、きっと僕はいつもどおり喫茶店に足を運ぶだけだったかもしれないからだ。


この話は何もクリームソーダだけに限らない。
本を読むだけじゃなく、読んだ上で書いてあることを実行してみたり、自分で文章を書いてみたりする。花を買ってきて自分が心地よいと思えるスタイルに活けてみる。単にコーヒーを買うだけではなく、自分で豆を挽いて淹れてみる。
そのどれもが、消費はしているけれど、同時に創造も生まれていると僕は思っている。
ネットやSNSは情報が早くて僕はもう追いつけない。そして、そのどれもが消費の話ばかりで最近疲れることが増えてきた。
だから今こそ、創造することのおもしろさや豊かさを改めて見直したいと思った。コロナは大変で憎いものだけれど、同時に自分に「創造」という新たな価値観を生み出してくれた。
今日は久しぶりにクリームソーダを作ってみよう。その1杯を作る時間、飲む人が目の前にいる今が、僕に新たな何かを授けてくれるような気がする。
喫茶七色|akira