暑くなったり寒くなったりでお天道様の気まぐれが続いてますが、さすがに12月とあって寒さを感じる時も増えてきたこの頃。
「冬」が急に身近になったくせに、季節を一つ戻して「秋」を探し出そうとして、「そういえば紅葉を今年は楽しんでない」ということに気づきました。
家から少し歩いて、坂を上った先には木々や公園がたくさんあって、いちょうの木も色づいているかなと思い、着替えてお気に入りの靴を履いて出かけました。
平日は仕事に追われて家と会社の往復、週末はやりたいことだらけの日々だと、こういう季節の移り変わりもすっかり忘れてしまいがちです。
澄んだ冬の青空に太陽の光がいちょうの葉を照らし、黄金色に輝く様子が目の保養に。
公園に目を向ければ、子どもたちが走り回っていたり、キャッチボールを楽しむカップルがいたりなど、忙殺された毎日から解き放たれて、久しぶりにゆっくりとぼんやり考えを巡らせられるひとときを楽しんでいると、いちょうの落ち葉が集められた場所が目の前に出てきました。
落ち葉が集められた場所を踏みしめると、「カサッカサッ」と良い音がします。
その時、「こっちは雪が降り始めたよ」という、母から送られてきたLINEのメッセージを思い出しました。
実家は東京から新幹線で2時間ほど。近いようで遠いその場所は、もう冬らしさに包まれていて、もう少し経つと雪が街全体を覆うようになります。
雪を踏みしめると「サクッサクッ」と音が鳴るのは、今自分が踏んでいる落ち葉の先を行った季節。東京では雪が積もる機会が少ないからこそ、雪国である実家の風景が急に懐かしく感じました。
いちょうの落ち葉と母からのメッセージもあって、散歩を楽しみながら家に戻るまでの道すがら、ずっと考えていたのは擬音語(オノマトペ)のことです。
日本語はオノマトペの表現が多いらしく、形ではない音を言葉で表現することにいつも美しさを感じています
そしてオノマトペで思い出したのが、中原中也の『一つのメルヘン』という詩。
中学校か高校で習った記憶がありますが、当時はちんぷんかんぷんで分からなかったことを覚えています。
当時の僕は本を読まず、ただ学校という空間でスポーツだけを頑張っているような人間でした。
秋の夜は、はるかの彼方(かなた)に、
小石ばかりの、河原があつて、
それに陽は、さらさらと
さらさらと射してゐるのでありました。陽といつても、まるで硅石(けいせき)か何かのやうで、
非常な個体の粉末のやうで、
さればこそ、さらさらと
かすかな音を立ててもゐるのでした。さて小石の上に、今しも一つの蝶がとまり、
淡い、それでゐてくつきりとした
影を落としてゐるのでした。やがてその蝶がみえなくなると、いつのまにか、
今迄流れてもゐなかつた川床に、水は
さらさらと、さらさらと流れてゐるのでありました……
でも、改めて見返してみると、この詩の良さや美しさに無性に感動しました。
「さらさら」という表現が印象的ですが、前後の文脈や少ない言葉だからこその表現、中原中也という人間のバックグラウンドなど、考えれば考えるほど奥深さが出てきます。
そのように感じることができているのは、僕自身が社会に出て、いろんな人と関わったり、本を読むようになったりして、あの時よりも「考える」「想像する」という機会が増えたからなんだと思います。
ただの散歩なのに、遠い過去を生きた詩人に思いを馳せるのは少し大げさな気もしますが、僕にとってすごく穏やかで贅沢な時間だったのでした。
喫茶七色|akira