海霧の中に消えゆく

出張で愛知県に来ている。仕事をするのはポートメッセという海辺にある展示場で、名古屋駅からあおなみ線という電車に乗って向かう必要がある。

前日の夜のテレビニュースでは、明日の朝から冷えることを伝えていて、そのとおりに名古屋の朝は吐く息が白くなるほどすっかり冬の装いだった。

あおなみ線はほとんどの区間が高架になっており、ほかの建物よりも少しだけ高い場所を走ってゆく。

駅に着いて扉が開くたびに、冷たい風が入り込んできて、せっかく暖まっていたのに車内はまたキリッと冷えてしまう。
朝の通勤ラッシュで人だらけの車内も、終点の金城ふ頭に着く頃にはすっかりガラガラだった。

海に向かう電車だから、稲永駅を過ぎた頃になると窓の外に港の様子が見えてきた。海面は霧のようなもやがかかっていて、それを見て久しぶりに「海霧」という言葉を思い出した。

海霧の中をゆっくりと進む船は、霧の中を浮かんでいるのではなく滑っていくかのようなであり、まるで水墨画のように静かで美しく、その光景を見ていてぼんやりと頭の中に浮かぶ記憶。

それは僕が幼稚園に通っていたときのこと。青森出身の母の実家は八戸にあり、当時暮らしていた青森市内のアパートから2か月に1回は家族で祖父母に会いに行っていた。青森からは有料道路を使って2時間くらいの少し長めのドライブで、いつでも祖父母に会うことができた。

冬になると楽しみだったのは祖父母の家に泊まった次の日。朝早く起きて着替えをし、車に乗って港に行くのだ。港には朝から釣りを楽しむ人がいるけど、僕たちは釣りをするために来ているのではない。

港にある小さな屋台が楽しみで来ていた。そこは何人かのおばあちゃんたちがいつもテキパキと働いていて、何を頼んでもすぐに出てくるようなお店だった。

決まって頼むのはおそばとおでんで、特におでんは黒色のスープにたくさんのタネが浮かんでおり、大根や卵にもしっかりと味が染みていてとてもおいしかった。

港について車のドアを開けた瞬間から、おでんの出汁の匂いが湯気と一緒に届いてきて、それがとても好きな瞬間だった。

小学校に入学してからも、港のそのお店に行くのは楽しみだったが、卒業と同時に父の実家がある富山県に引っ越したから、その味もすっかりと忘れてしまっていた。

でも、ある時急に思い出すことになる。そのきっかけが東日本大震災だった。その日は部活動もなく、授業や掃除を終えて家に帰り、祖父母と3時のおやつでお茶を飲む準備をしていた。

国会中継を流していたテレビに、「緊急地震速報」と赤いテロップが急に表示され、あのけたたましい嫌な音が流れた。

揺れているのは東北だったが、震源から遠く離れた富山でも一瞬家がグラッと揺れて、これはとんでもなく大きい地震が起きたと思った。

そうして津波警報が発表され、ヘリや定点カメラが映し出したのは、街をものすごいスピードで飲み込んでゆく、黒い水の壁と化した津波の様子だった。

テレビで見る初めての恐ろしい景色。今同じ瞬間に僕と違う場所で起こっている事実をしばらく受け入れることができなかった。

テレビの映像はひっきりなしに切り替わり、いろんな場所の津波を映していて、その1つに八戸もあった。そして、あの港が映し出されていた。

ジワジワと水位が上がり、ついに港の中に水が入りはじめた。一度そうなると津波は歯止めが効くわけもなく、港の先にある街までもが津波に飲み込まれていった。

他の場所にカメラが切り替わる一瞬、おそばとおでんを出すあのお店が映った。ただ、津波のあまりにも大きな力の前にしてどうにかなる問題ではなく、テレビを見ている当時の自分は、あそこで働くおばあちゃんたちの無事を祈ることしかできなかった。

東日本大震災から既に14年が経つ。

その間に優しかった祖父母も亡くなってしまい、母の姉弟などの親戚がいる以外は、僕と青森の接点もほとんど失われてしまった。

あのお店が今はどうなっているのかわからない。
いつ行っても優しく温かく迎え入れてくれた祖父母も、もういない。

接点がなくなると人は急激にその記憶を忘れてしまうような気がする。でも、忘れたのではなく頭の中の片隅に残っていて、その引き出しを開けなくなっていただけなのかもしれない。

25年近くも前の記憶を思い出させてくれたのは、海霧が立ち込める冬の名古屋の海だった。

喫茶七色|akira

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